私が岡崎正博(39)理事に最初に会ったのは、もうかれこれ12年程昔のことだ。場所はシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル&タワーズ、第6回コンピュータ将棋選手権の懇親会である。当然ながら私の方から足を運んだのは言うまでもない(汗)


謎電は記録上第7回からのデビューだが、実は第6回からエントリしていた。が、諸般の事由により出場を辞退することになった。そのことを電話で連絡するだけというのは将来的に信用問題になりかねないと思い、挨拶だけでもと会場に足を運んだのが事の始まりである。余談だが、会場に着いて私が最初に挨拶したのはマエストロ柿木選手である。何故なら、当時柿木師匠が選手権の参加申し込みの受付をされていたからだ。


さて、以下に岡崎正博(39)理事が話していた内容をそのまま書く。12年も前のことなのでところどころ不正確なのはお許し願いたい。

・司葉子と一緒に「平凡」のグラビアを飾ったことがある。


ううぅ、すみません、なにぶん古い話なので、それだけしか覚えてません(汗)当時の私は岡崎正博(39)理事の話を聞けば聞くほどこの人は老人変人かも知れないと思った。しかしながら私も人の事は言えないので、寧ろ岡崎正博(39)理事に対し妙な親しみを感じたのも事実である。


その第6回選手権の懇親会の時、岡崎正博(39)理事と「チェスの可能ゲーム数の算出方法は、もともとシャノンが考え出した筈だが、あの方法や数字を引用するのは微妙に問題があるのではないか」みたいな話をしていた。そしたらいきなし岡崎正博(39)理事が「おおーい、松原君、この人が松原君に何か文句があるってよおー」とか言い出して、突如松原教授を呼んでしまったのである。そういうこともあって松原教授と少し深い議論になったのだが、その内容の詳細は割愛させて頂く。


その後、岡崎正博(39)理事を新宿5?丁目あたりで頻繁に見かけていた。当時私は富久町に住んでおりその周辺に岡崎正博(39)理事の職場があったということである。そういう訳で例の「新宿2丁目ベローチェ事件」が突発的に起きたのは、計算機科学の神様の思召しであったのかも知れない。

話は少し逸れるのだが、日本将棋連盟の米長邦雄(18)会長は、正確には米長邦雄(S.18)会長と表記すべきであることは周知の事実である。同様に、岡崎正博(39)理事の場合は、岡崎正博('39)理事と表記した方が事実に限りなく近くなるのではないかと謎電の作者は分析している。が、公正取引委員会から不正表示の改善命令が出るまでは、今後も「岡崎正博(39)理事」として活躍して頂くつもりである。